「湯浅京己の高校はどこ?」
「湯浅京己の高校時代の成績が知りたい」
阪神タイガースに所属している湯浅京己選手。
チームの中でもトップクラスにイケメンで人気の高い選手ですよね。
2022年シーズンからはセットアッパーとして重要な場面で登板を任されています。
最速は156キロで多数の変化球を武器に打者を打ち取っています。
何よりも度胸が据わっていて、緊張する場面でも強い気持ちでいい投げっぷりを披露してくれるのが最大の魅力ですよね。
そんな湯浅京己選手の高校時代はどんな選手だったんだろう?と気になる方も多いと思います。
出身高校はどこでポジションや成績など知りたいですよね。
そこで今回は湯浅京己選手の高校時代について調査していきましょう。
湯浅京己の高校はどこ?
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湯浅京己選手の出身高校は福島県の聖光学院高等学校です。
聖光学院といえば、初のセンバツには6回、夏の甲子園には17回出場している甲子園常連校です。
しかも夏の甲子園ではベスト8が5回、ベスト4が1回とかなりの強豪校として知られています。
プロ野球選手も輩出していて同じ阪神で活躍した元プロ野球選手の歳内宏明さんも聖光学院出身です。
湯浅京己選手は小学校4年から『尾鷲野球少年団』に所属して野球を始めました。
中学時代は『伊勢志摩ボーイズ』に所属してプレーしています。
当時のポジションは主に内野手だったそうです。
湯浅京己選手が聖光学院への進学を決めたのは小学校の頃の講演会がきっかけでした。
小学校の高学年になった頃、地元にイチローさんの専属打撃投手も務めた経験のある、奥村幸治さんが講演に訪れました。
内容はあまり覚えてないと言うことでしたが、そこで『聖光学院』と何度も聞いたことがきっかけで、聖光学院に憧れるようになり入学したいと考えるようになったそうです。
湯浅京己の高校時代の成績は?
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湯浅京己選手は憧れの聖光学院高校に入学してすぐ、成長痛からくる腰痛を発症してしまいました。
一時は歩くのも辛いほどの痛みだったといいます。
「医師からはある程度成長するまで治らない」と言われてしまいました。
どうすることもできず、痛みを堪えながらストレッチやウォーキングなどで体を動かす日々を送っていました。
さらに野球部の練習ではチームのためにノック補助などをやっていたそうです。
1年の秋になると『完治するまでマネージャーをやってみないか?」と打診されました。
湯浅京己選手は正直嫌だなと思ったそうです。
しかし治ったら選手として復帰できることを約束して引き受けました。
この時期はかなり辛いものだったと振り返っています。
親元を離れ地元の三重県から福島県まで出てきて、野球ができない日々に『何のためにここにいるんだろう』と情けなく思った時期もありました。
ただこの経験があったからこそ、怪我なくシーズンを終えることがどれだけ大事か認識したといいます。
湯浅京己選手は決して腐ることなくマネージャーとして頑張りました。
他の選手が注意されていると指導者の横で耳をすまし、『同じ失敗はしない』と頭に叩き込んでいたそうです。
この頃の湯浅京己選手は『神様は自分が乗り越えられる試練しか与えない』とずっと頭の中で繰り返して自分を鼓舞していました。
復帰へ向けて着々と『野球脳』は成長し続けていきました。
ようやく痛みも和らぎ野球に復帰したのは2年生の秋でした。
11月に行われた練習試合で念願の投手として初登板を果たしています。
いきなり135キロを計測して、手応えも悪くありませんでした。
3年の春にようやく公式戦デビューとなりました。
春の県大会では決勝まで進み先発を任されています。
4回を投げて3失点という結果でした。
湯浅京己選手は当時のことについては「あんまり覚えてないけど、とりあえず緊張してました」と笑いながら振り返っています。
夏の県大会では背番号18をもらいました。
3回戦で1イニング投げて最速の145キロをマークしてアピールします。
しかし登板はこのたった1イニングだけでした。
チームは優勝して甲子園への出場を決めましたが、全国大会ではベンチ入りメンバーから外されてしまいました。
投手層の厚い年だったことと、他の選手に比べてあまりにも経験が浅すぎたことが要因だったそうです。
自分以外の4人の投手がメンバーに選ばれて本当に悔しい思いをしました。
それでも湯浅京己選手は甲子園でアルプススタンドから力一杯チームに声援を送っています。
今はその甲子園の舞台でセットアッパーとして活躍しているわけですから、感慨深いですよね。
思うように野球ができない日々でも腐ることなく脳内で『野球脳』を成長させてきたおかげともいえます。
湯浅京己の高校時代まとめ
今回は湯浅京己選手の高校時代についてお伝えしてきました。
出身高校は甲子園常連校の聖光学院です。
入学直後からの腰痛で思うように練習ができなかったというのは驚きでした。
復帰したのは2年の秋、そこから最速145キロまで持っていくとは相当努力したのではないでしょうか。
残念ながら甲子園のメンバーには選ばれず悔しい思いをしましたが、この経験があったからこそ怪我をしないことがどれほど大事か痛感したのだと思います。
これからも怪我なく、思う存分甲子園の舞台で活躍してほしいですね。